自然薯と松尾芭蕉

自然薯と松尾芭蕉

大石田自然薯にまつわる歴史や由来 大石田町新作物開発研究会 会長 海藤 明

料理の食材に、歴史的背景や由来があればもっと楽しい話題提供になります。

そんな自然薯にまつわる歴史や由来を資料や古老の話からまとめました。

旧暦で6月1日は、「むけの朔日」といい大石田や最上地方では自然薯を山から掘ってきて食べた日です。
しかも、旧暦の6月1日は農休日でもあったようです。また梅雨の最中で当時田植作業も終わり草取り作業の頃です。疲弊した身体を癒やし、真夏に備えて滋養と強壮に特に良い「自然薯」を食べて疲れを取ったそうです。

漢方名で「野山薬」とか「山薬」と呼ばれ、昔から色々な効用が説かれています。
当地方では、なぜ初夏に自然薯を自然の山から掘って食べたのか、それは雪国ならではの習慣のようです。自然薯が実り収穫するのは11月になります。

紅葉した自然薯の蔓を目印に掘り収穫するのですが、雪国では、初雪の降る頃が収穫時季になります。
雪の降らない地方では、冬期間でも掘り出せますが自然薯の蔓に雪が付着すると、雪の重みで蔓が切れてしまい目印がなくなり掘り出すことが出来なくなります。その後根雪となり春まで休眠状態になります。やがて春が来て、休眠から目覚めた親芋から新芽が出てきます。
旧暦6月1日ごろは、その新芽を探して掘ることが出来ますが、その時季を過ぎると急速に親芋はやせ細っていきますので、最後の掘り取り機会となります。

そのような時節に、俳聖 松尾芭蕉が当時山形県を訪れて、梅雨の最中、大雨のため境田の「封人の家」に二泊しております。そして、旧暦の5月17日に尾花沢に入り、旧知の鈴木清風宅に地元の俳人たちの歓待をうけて十泊しています。
旧暦5月27日、清風らの勧めで予定外の「山形立石寺」へと旅たち午後3時ごろ着き、その日の内に参拝しています。宿は、預り坊に一泊し5月28日朝に立ち、午後2時大石田の一栄宅に着きました。この夜は疲れたので俳諧はなく休んでいます。
旧暦5月29日芭蕉は、一栄・川水をともなって黒滝山向川寺に参詣しています。道程の途中で俳諧があり、夕飯は川水宅でご馳走になりました。

旧暦5月30日、ご馳走になったその日歌仙「さみだれ」を満尾しています。
そして、旧暦6月1日に大石田を立ち新庄へと向かいました。予定にない山寺立石寺へ1泊して帰る強行スケジュールをこなし、蒸し暑い梅雨の時季大石田にいる頃は、芭蕉・曾良共に疲れが最高に達していたと想われます。

このことは、曾良の日記から伺えます。そんな情況を見て、川水・一栄らは、当時リポビタンなどのない時代であり、当時の食習慣から芭蕉の健康を気遣い、滋養と強壮に特に良く、しかも胃腸に大変優しい消化酵素の多い自然薯を調理し、朝夕の食事に出したと思われる。
一栄・川水の芭蕉への優しさであったと想われる。

大石田では、斎藤茂吉がうなぎを食べた話も有名ですが、高蛋白な食材を身体的に疲れた人に食べて貰うには、胃腸に優しい物と食べ合わせするのがいいと思うからです。現代の食べ合わせで、牛タンと麦トロなどが挙げられます。

芭蕉は、紀行中に自ら浄書して真筆の懐紙を旅の記念として唯一の歌仙を残しています。

おくのほそ道に、「最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて忘れぬ花の昔を慕い、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐりを足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流ここに至れり」と書いてあります。

清流、一栄、川水らのもてなしの心が、山形県に長く滞在させたものと私は思います。

また、芭蕉は「尿前の関・養泉寺・尾花沢・山寺・大石田」で次の名句を残しております。

尿前の関にて 「蚤虱馬のばりこくまくらもと」

養泉寺にて 「涼しさを我が宿にぢてねまる他」

尾花沢にて 「まゆはきをおもかげにしてべにの花」

山寺にて 「閑かさや岩にしみ入蝉の声」

大石田にて 「五月雨を集めてすずし最上川」

このように旧暦の6月1日に大石田を立つまでに、芭蕉が大石田に数日間滞在して居たと言う歴史と自然薯に関わる物語です。

雪室熟成自然薯です。むけの朔日に食味していただければと思います。